
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンについて
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ドイツの作曲家。クラシック音楽史上極めて偉大な作曲家の一人とされます。 その作品は古典派音楽の集大成かつロマン派音楽の先駆けとされています。1770年12月16日、神聖ローマ帝国ケルン大司教領のボンで 父ヨハン、母マリア・マグダレーナの長男として生まれます。1774年頃よりベートーヴェンは父からその才能を当てにされ、 苛烈を極める音楽の教育を受けることとなり、1778年にはケルンでの演奏会に出演し、1782年よりクリスティアン・ゴット ロープ・ネーフェに師事しました。1787年、16歳のベートーヴェンはウィーンに旅し、かねてから憧れを抱いていたモーツァルトに 弟子入りを申し入れ、モーツァルトにその才能を認められ弟子入りを許されましたが、最愛の母マリアの病状悪化の報を受けボンに戻り、 アルコール依存症となり失職した父に代わり仕事を掛け持ちして家計を支え、父や幼い兄弟たちの世話に追われる苦悩の日々を過ごしました。 1792年7月、ロンドンからウィーンに戻る途中ボンに立ち寄ったハイドンに才能を認められ弟子入りを許可され、11月にはウィーンに移住し、 まもなく、ピアノの即興演奏の名手として名声を博しました。20歳代後半ごろより持病の難聴が徐々に悪化、26歳の頃には中途失聴者と なります。1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間にわたって中期を代表する作品が書かれ、 ベートーヴェンにとっての傑作の森と呼ばれる時期となります。40代に入ると、難聴が次第に悪化し、晩年の約10年はほぼ聞こえない 状態にまで陥いりました。加えて、非行に走ったり自殺未遂を起こすなどした甥カールの後見人として苦悩するなどして一時作曲が 停滞しましたが、そうした苦悩の中で作られた交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』といった大作、ピアノ・ソナタや弦楽四重奏曲等の 作品群は彼の未曾有の境地の高さを示すものでした。
ベートーヴェンの作風
作曲家としてデビューしたての頃は耳疾に悩まされることもなく、古典派様式に忠実な明るく活気に満ちた作品を書いていました。 1802年の一度目の危機とは、遺書を書いた精神的な危機です。ベートーヴェンはこの危機を、ウィーン古典派の形式を再発見する事により 脱出しました。ウィーン古典派の2人の先達よりも、徹底して形式的・法則的なものを追求したようです。この後は中期と呼ばれ、 コーダの拡張など古典派形式の拡大に成功したといわれています。中期の交響曲はスケルツォの導入、従来のソナタ形式を飛躍的に拡大、 旋律のもととなる動機やリズムの徹底操作、標題的要素、楽章の連結、5楽章形式など、革新的な技法を編み出しています。 その作品は、古典派の様式美とロマン主義とをきわめて高い次元で両立させており、音楽の理想的存在として、以後の作曲家に影響を与え ました。第5交響曲に典型的に示されている「苦悩を突き抜け歓喜へ至る」という図式は劇性構成の規範となり、後のロマン派の多くの作品が これに追随しました。1818年の二度目の危機の時にはスランプに陥っていましたが、ホモフォニー全盛であった当時においてバッハの遺産、 対位法つまりポリフォニーを研究しました。対位法は中期においても部分的には用いられましたが、大々的に取り入れる事に成功し危機を 乗り越えた。変奏曲やフーガはここに究められました。これにより晩年の弦楽四重奏曲、ピアノソナタ、交響曲第9番、 『荘厳ミサ曲』、『ディアベリ変奏曲』などの後期の代表作が作られました。
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトについて
ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはオーストリアの作曲家で演奏家です。古典派音楽の代表であり、ハイドン、ベートーヴェンと 並んでウィーン古典派三大巨匠の一人。称号は神聖ローマ帝国皇室宮廷室内作曲家、神聖ローマ帝国皇室クラヴィーア教師、 ヴェローナのアカデミア・フィラルモニカ名誉楽長などを勤めました。 1756年1月27日、ザルツブルクに生まれます。父レオポルト・モーツァルトは元々は哲学や歴史を修めるために大学に行きましたが、 途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家・ヴァイオリニストでした。母はアンナ・マリーア・ペルトルで、 七番目の末っ子としてヴォルフガングは生まれました。父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えました。 3歳のときから チェンバロを弾き始め、5歳のときには 最初の作曲を行います。1769年から1771年にかけて、第1回目のイタリア旅行を行い、 父と共にミラノ、ボローニャ、ローマを巡回します。システィーナ礼拝堂では、門外不出の秘曲とされていたグレゴリオ・アレグリの9声部の 『ミゼレーレ』を聴き、暗譜で書き記したといわれています。イタリア旅行は三度におよぶが、なかでも、ボローニャでは作曲者であり 教師でもあったジョバンニ・バッティスタ・マルティーニ神父に、対位法やポリフォニーの技法を学びました。教育の成果はすぐに 現れませんでしたが、15年後の円熟期にモーツァルトは対位法を中心的な技法としていました。モーツァルトはほとんどの音楽教育を 外国または旅行中に受けました。1770年にはローマ教皇より黄金拍車勲章を授与されます。また同年、ボローニャのアカデミア・ フィラルモニカの会員に選出されます。1785年には弦楽四重奏曲集をハイドンに献呈します。2月に父・レオポルトがウィーン訪問した さいには、息子の演奏会が盛況なことを喜ぶとともに、ハイドンから息子の才能について賛辞を受けます。ハイドンは2年後の1787年、 プラハからのオペラ・ブッファの作曲依頼に対して、自分の代わりにモーツァルトを推薦しました。ハイドンはもし有力者が彼の才能を 理解できるのなら「多くの国々がこの宝石を自国の頑固な城壁のなかに持ち込もうとして競うだろう」と断言しました。 1786年5月1日、オペラ『フィガロの結婚 K.492』をブルク劇場で初演し、翌年プラハで大ヒットしたためプラハを訪問します。 10月には、新作の作曲依頼を受け、オペラ『ドン・ジョヴァンニ K.527』を作曲し、プラハエステート劇場で初演。 モーツァルト自らが指揮をとります。翌1788年にはいわゆる“3大交響曲”(交響曲第39番、第40番、第41番)を作曲します。 ウィーンではピアニストとして人気を誇りましたが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されています。 1790年1月、オペラ『コジ・ファン・トゥッテ K.588』を初演します。 2月には皇帝ヨーゼフ2世が逝去し、レオポルト2世が即位します。 1791年1月、最後のピアノ協奏曲となる第27番を作曲します。この曲を自ら初演した3月4日のコンサートが演奏家としてのモーツァルト 最後のステージとなりました。
ベートーヴェンの作風
最初は父経由でヨハン・ショーベルトなどの当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、クラヴサン曲を中心に学びました。 その後ヨハン・クリスティアン・バッハの影響をピアノ・管弦楽曲の双方で受けました。後期に入るとハイドンとヨハン・セバスティアン・ バッハの影響が強いようです。モーツァルトの作品はほとんどが長調で、装飾音の多い軽快で優美な曲が多いです。これは当時の音楽の 流行を反映したもので、ロココ様式あるいはギャラント様式と呼ばれています。彼が主に使用していたピアノの鍵盤が沈む深さは 現代のピアノの約半分であり、非常に軽快に演奏できるものであったことがその作風にも影響を与えました。 晩年に向かうにつれて長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、しばしば「天国的」と形容されます。 また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高いです。 モーツァルトの時代にはポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていました。 しかし彼はJ・S・バッハやヘンデルの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕もありました。 「下書きをしない天才」とも言われ、モーツァルトが非凡な記憶力を持っていたのは多くの記録からも確かめられていますが、 自筆譜の中には完成・未完成曲含めて草稿及び修正の跡が多く発見されています。人気の高いピアノ協奏曲23番については、 その数年前に書かれた草稿が発見されています。ただし作曲するのが早かったのは事実であり、例えば交響曲第36番はリンツ滞在中に 作曲されましたが、父との手紙のやり取りから3日で書き上げたことが分かっています。交響曲第39番から41番「ジュピター」までの3つの 交響曲は6週間で完成させています。また別の手紙からは彼が頭の中で交響曲の第1楽章を作曲したあと、それを譜面に書き起こしながら 同時に第2楽章を頭の中で作曲し今度は第2楽章を書き起こしている間に第3楽章を頭の中で作曲したという手順を踏んでいたということが 分かっています。